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「戦争と本願寺⑦」

■■■5章「(補足2)本願寺の歴史」

5-24戦争と本願寺

安全保障関連法

 前回の末尾に<次の戦争>という言葉を使いました。私たち人間の煩悩性から言って、戦争という状況は極自然な平常的状態だと言ってもよいと思います。一つの戦争状況が終われば、すぐにまた次の戦争への道が作られ始めます。たとえ江戸時代のように戦争状況のない期間が長く続いたとしても、それはそれだけ大きな突出した力で抑え込んでいたのであって、逆に言えばそれだけ大きな反発力を溜め込んでいた状態であったわけです。先の戦争は1945年に終結しましたが、その後しばらくで<次の戦争>への準備が始められていきます。例えば靖国神社を再び国家護持して本来の姿に戻そうとする動きは、1952年の日本遺族厚生連盟(日本遺族会の前身)総会で提案されます。その後さまざまな紆余曲折を経ながら<次の戦争>への道は切り開かれ続けます。そして今日、その最終段階を迎えているわけです。その一つの大きな局面が、2015年の安全保障関連法の成立でした。それまでの憲法理解を踏み潰して、集団的自衛権を認めていった<次の戦争>への大きな一歩でした。

 この時に当たって、東西の本願寺教団からそれぞれコメントが発表されました。それをここでご紹介したいと思います。

●「安全保障関連法案に対する宗派声明発表


 このたび、国会に提出された「安全保障関連法案」に対し、真宗大谷派では5月21日、宗務総長名による宗派声明を発表しました。

日本国憲法の立憲の精神を遵守する政府を願う
「正義と悪の対立を超えて」

 私たちの教団は、先の大戦において国家体制に追従し、戦争に積極的に協力して、多くの人々を死地に送り出した歴史をもっています。その過ちを深く慙愧する教団として、このたび国会に提出された「安全保障関連法案」に対し、強く反対の意を表明いたします。そして、この日本と世界の行く末を深く案じ、憂慮されている人々の共感を結集して、あらためて「真の平和」の実現を、日本はもとより世界の人々に呼びかけたいと思います。

 私たちは、過去の幾多の戦争で言語に絶する悲惨な体験をいたしました。それは何も日本に限るものではなく、世界中の人々に共通する悲惨な体験であります。そして誰もが、戦争の悲惨さと愚かさを学んでいるはずであります。けれども戦後70年間、この世界から国々の対立や戦火は消えることはありません。
 このような対立を生む根源は、すべて国家間の相互理解の欠如と、相手国への非難を正当化して正義を立てる、人間という存在の自我の問題であります。自らを正義とし、他を悪とする。これによって自らを苦しめ、他を苦しめ、互いに苦しめ合っているのが人間の悲しき有様ではないでしょうか。仏の真実の智慧に照らされるとき、そこに顕(あき)らかにされる私ども人間の愚かな姿は、まことに慙愧に堪えないと言うほかありません。
 今般、このような愚かな戦争行為を再び可能とする憲法解釈や新しい立法が、「積極的平和主義」の言辞の下に、何ら躊躇もなく進められようとしています。
 そこで私は、いま、あらためて全ての方々に問いたいと思います。

 「私たちはこの事態を黙視していてよいのでしょうか」、
 「過去幾多の戦火で犠牲になられた幾千万の人々の深い悲しみと非戦平和の願いを踏みにじる愚行を繰り返してもよいのでしょうか」と。

 私は、仏の智慧に聞く真宗仏教者として、その人々の深い悲しみと大いなる願いの中から生み出された日本国憲法の立憲の精神を蹂躙する行為を、絶対に認めるわけにはまいりません。これまで平和憲法の精神を貫いてきた日本の代表者には、国、人種、民族、文化、宗教などの差異を超えて、人と人が水平に出あい、互いに尊重しあえる「真の平和」を、武力に頼るのではなく、積極的な対話によって実現することを世界の人々に強く提唱されるよう、求めます。

                      2015年5月21日        真宗大谷派(東本願寺)宗務総長 里雄康意  」

●「
戦後70年にあたって非戦・平和を願う総長談話

 アジア・太平洋戦争の終結から、本年で70年目を迎えました。先の大戦によって犠牲になられた世界中のすべての皆さまに対し、あらためて衷心より哀悼の意を表します。また、大切な方を失った方々の悲しみは、今現在も癒えることがありません。戦争は遠い未来の人々にまで、深い苦しみを与えるのです。

 約2500年前、釈尊は「己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」と説かれました。しかし、今なお私たちは、自分の都合の良いものには愛着を抱き、不都合なものには憎しみを抱くという、自己中心的な生き方をしています。共にかけがえのない命を受けながら、他者を認めることができず、争いあっているのです。いかなる戦争も、必ず、多くの命を奪います。そして、人と人が命を奪いあうことほど愚かなことはありません。
 非戦・平和こそ人類の進むべき道です。
 大谷光真前門主は、1997年3月20日、本山・本願寺における基幹運動推進・御同朋の社会をめざす法要で、「すべてのいのちの尊厳性を護ること、基本的人権の尊重は、今日、日本社会の課題にとどまらず、人類共通の課題であり、世界平和達成への道でもあります」と述べられました。私たちは「いのちの尊厳性」が平和実現のキーワードであることを、今こそ認識すべきであります。
 また、大谷光淳門主は、2015年7月3日、広島平和記念公園における平和を願う法要で、「人類が経験したこともなかった世界規模での争いが起こったあと、70年という歳月が、争いがもたらした深い悲しみや痛みを和らげることができたでしょうか。そして、私たちはそこから平和への願いと、学びをどれだけ深めることができたでしょうか」と述べられました。
 現在、日本では、我が国の平和と安全保障を巡って、国会のみならず、全国各地で厳しい議論がおこなわれていますが、多くの国民が納得できるよう、十分な説明と丁寧な審議が尽くされることを願っております。私たち浄土真宗本願寺派でも、先の戦争の遂行に協力した慚愧すべき歴史の事実から目をそらすことなく、念仏者がどのように恒久平和に貢献しうるかについて、研究を重ねてきました。近々に、その成果≪平和に関する論点整理≫を中間報告として公表する予定です。これを機に、宗門内外の方々と共々に学びを深めることができれば幸いです。
 戦後70年を経た今、私たちは過去の戦争の記憶を風化させることなく、仏の智慧に導かれる念仏者として、すべての命が尊重され、自他共に心豊かに生きることのできる社会の実現に貢献すべく、歩みを進めてまいります。

   2015年8月10日                                浄土真宗本願寺派 総長 石上 智康   」

 この二つのコメントをお読みになってどう思われましたでしょうか。私の所属しております本願寺派の「総長談話」では、「念仏者がどのように恒久平和に貢献しうるかについて」の「研究を重ねて」来て、近々その中間報告公表する予定だと言うのです。「開いた口がふさがらない」というのはこういうことを言うのでしょうか。今目の前でこの国が大きく<次の戦争>への土足の一歩を踏み出そうとしている時に、ただいま研究中!とはどういう神経なのでしょう。敗戦から70年間、いったい何を研究してきたのでしょう。そしていつになったらその研究は終わるのでしょう。どんな研究成果が残るのでしょう。

 『宗報』2015年11・12月合併号に、20ページにわたって「平和に関する論点整理」が掲載されました。専如門主の消息を基本姿勢とする(まえがき)というこの文章は、まことに冗長です。「素朴な疑問」から論点を整理し、議論を喚起するために作成されたとあります。そのため、「社会の中には様々な立場があることを踏まえて、あえて賛成や反対、その他という複数の意見を記載してい」るとのことです。そんなことは新聞を見れば分ることです。本願寺が示すべきことは、本願寺の立場、本願寺の戦争に対する考え方、これからの姿勢、方向です。

 


by shinransantoikiru | 2020-08-06 11:20 | 親鸞さんの仏教