2020年 07月 09日
「戦争と本願寺③」
■■■第5章「(補足2)本願寺の歴史」
★5-20「戦争と本願寺③」
■戦時教学
「戦時教学」という言葉が使われることがあります。新しい教学が作られたのかというと、そういう意味ではありません。これまでお話してきましたように、本願寺成立時から基本的な念仏理解は何も変わっていません。明治大正昭和の戦争の時代も、覚如存覚や蓮如などと同様の念仏理解を持ちながら本願寺は生きています。ただ、戦争という特殊な状況の中で、それに合わせた教学表現をさまざまに行ってきたわけです。それらについては、多くの先生方がさまざまな研究を出しておられますので、お読みいただけるのではと思います。ここでは資料として一つご紹介したいと思います。
■「拝読セザルコト」
1940(S15)年に出された「『聖教の拝読並びに引用の心得』に関する通達」というものがあります。親鸞さんの書かれた言葉などを読むときの注意が書かれています。つまり「ここは読むな」とか、「読み替えろ」とか、「空白にしろ」というような内容です。13か条あります。意訳は必要ないと思いますので省略します。
●「一、イ 教行信証行巻ノ「是以帰命者本願招喚之勅命也」
ロ 教行信証信巻ノ「招喚諸有群生之勅命」
ハ 浄土文類聚ノ 「奉持如来教勅」
ニ 同 「超捷易往之教勅」
ホ 同 「招喚諸有衆生之教勅」
右ノ中ノ「勅命」「教勅」ハ引用ノ際ハ「恩命」若クハ「教命」トナシ
「恩命」、「教命」若クハ「オホセ」ト拝読スルコト
二、イ 教行信証化巻ノ「菩薩戒経言、出家人法不向国王礼拝、不向父母
礼拝、六親不務、鬼神不礼」ハ引用若クハ拝読セザルコト
三、イ 教行信証流通分
ロ 御伝鈔下巻
右ノ中「号後鳥羽院」、「号土御門院」及「号佐渡院」ノ「号」ハ
「号シタテマツル」ト拝読スルコト
四、イ 教行信証流通分ノ「主上臣下背法違義成忿結怨」
ロ 御伝鈔下巻ノ「主上臣下法ニ背キ義ニ違シイカリヲナシアタヲムスブ」
右二文ハ空白トシ引用若クハ拝読セザルコト
五、イ 教行信証流通分ノ「不考罪科猥」
ロ 御伝鈔下巻ノ「罪科ヲカンガヘズミタリカハシク」
右二文ハ引用若クハ拝読セザルコト
六、イ 教行信証流通分
ロ 御伝鈔下巻
右ノ中ノ「今上」ハ、「今上天皇」ト拝読スルコト
七、イ 教行信証流通分
ロ 御伝鈔上巻
ハ 報恩講私記
ニ 御文章第三帖
右ノ中ノ「真影」ハ「影像」若クハ「ミスガタ」ト拝読スルコト
八、イ 御伝鈔上巻第三段(六角夢想段)
ロ 下巻第四段(箱根霊告段)
ハ 下巻第五段(熊野霊告段)
右ノ三段ハ拝読セザルコト
九、イ 御伝鈔上巻「聖徳太子親鸞上人ヲ礼シ奉リテ曰」ハ空白トシ引用拝読セザルコト
十、イ 御伝鈔下巻「陛下叡感ヲクダシ」ハ「陛下叡感ヲクダシタマヒ」ト拝読スルコト
十一、高僧和讃二首
イ 現空勢至ト示現シ
アルイハ弥陀ト顕現ス
上皇・群臣尊敬シ
京夷庶民欽仰ス
ロ 承久ノ太政法皇ハ
本師源空ヲ帰敬シキ
釈門儒林ミナトモニ
ヒトシク真宗ニ悟入セリ
十二、正像末和讃一首
イ 救世観音大菩薩
聖徳皇ト示現シテ
多々ノゴトクニステズシテ
安摩ノゴトクニオハシマス
右三首ノ和讃ハ一般ニ拝読セザルコト
十三、今後聖教若クハ祝辞弔詞ノ朗読、又ハ説教講演等ニ於テ、皇室ニ関スル
辞句ニ接スル場合ハ、特ニ威儀ヲ正シクシ一礼シテ敬意ヲ表スベキコト
以上 」
一は、「勅」は天皇について使う言葉であり、アミダ仏について使ってはならないということです。この一点ですら、アミダ仏の上に天皇を位置付けていることが分ります。
二は、とても大事な菩薩戒経の引文です。もちろん「国王不礼」がNGです。
三から六までは、教行信証の執筆目的の原点でもある承元の法難についてのものです。特に四の「主上・・・」については空白にせよと最も強い指示がされています。私が学生の時に買った『真宗聖教全書』で、この「主上」の二文字が空白になっていたのを思い出します。もちろん戦後の再版本です。当時まだ本願寺から正規の聖典が出版されておらず、すべての僧侶や学生がこれを使っていました。たとえ民間出版社のものであっても、戦後30年以上も放置しておく本願寺の姿勢が問われたものです。
七は、「真影」という言葉は天皇の肖像に使う言葉だから読み替えろというのです。
八は、本地垂迹のことです。神の元の姿が仏では具合が悪いので読むなというのです。
九は、皇族である聖徳太子が親鸞さんを拝むのでは上下関係が逆だから空白扱いです。
十は、天皇については敬語を使えと。
十一は、皇族たちが法然を尊敬や帰敬したのではこまると。
十二は、聖徳太子が観音菩薩では困ると。
十三は、今後皇室に関する言葉を発する時には威儀をただし敬意を示せと。
念のために言いますが、本願寺派が派内の寺院・僧侶・門徒たちに出した文書です。外部から出されたものではなく、本願寺自身が自分たちが拠り所としている聖教に対して、このような指示を出しているのです。こうもずたずたに親鸞さんの言葉を傷付けて、いや捨てて!、それでも真宗僧侶真宗門徒でありますと言える心境が理解できません。少なくとも、自分自身が親鸞さんの言葉によって人間として救われたとか、導かれたという強い思いはないのだろうと思います。もしそういう思いがあるのであれば、いくら天皇に忠実にありたいという思いが強くても、ここまで親鸞さんを侮辱することには抵抗があるだろと思うのですが・・・。
■「聖徳太子>七高僧」
もう一つついでにご紹介しておきましょう。1939(S14)年に「『聖徳太子奉安様式』を定めた達示」というのが出されています。真宗寺院の本堂には、聖徳太子の肖像が掲げられています。その掛け軸の掛ける位置についての変更指示です。次のようなものです。
●「達示
甲達第二十二号
末寺一般
今般聖徳太子奉安様式ヲ別記ノ通相定ム
昭和十四年九月十六日 執行長 本多 恵隆
(別記)
太子御影ヲ本堂内ニ安置スル場合ハ向ッテ右余間ニ奉安スヘシ
追而 七高僧御影ハ向ッテ左余間ニ安置ス
由緒宗主御影等安置ノ場合ハ其左側トス 」
余間(よま)というのは、内陣(ないじん。本尊や親鸞さんなどの肖像が掛けてある部屋)の左右両側にある部屋のことです。聖徳太子の肖像掛け軸は、その向って右余間に掛けろ、という指示です。ちなみにそれ以前はどうであったのかと言いますと、次の資料をご覧ください。
●「太子・七高僧ノ御影ヲ両余間ニ安置スル場合ハ聖徳太子ノ御影ハ右余間(向テ左余間)ノ壇上ニ安置シ、左余間(向テ右余間)ノ壇上ニ七高僧ノ御影ヲ安置ス。一方ノ余間ニ安置スル場合ハ左余間(向テ右余間)ニ安置シ、七高僧御影ヲ祖師ニ近ク安置ス。
(『法式紀要』1931(S9)年2月刊)」
つまり1931年の時点では聖徳太子の肖像は「向って左余間」に掛けていたものを、1939年から「向って右余間」に掛け直せということに変更したわけです。日本では唐の影響を受けて奈良・平安時代から左(向って右)が上でした。左大臣が右大臣より上であったわけです。ですのでここでの変更というのは、聖徳太子と七高僧のどちらが上か下かというと、これまで七高僧が上位の扱いを受けていたのを、この1939年から逆転させて聖徳太子を上位に置けという指示を出したということです。もちろん理由は、聖徳太子は皇族であるということです。七高僧はインド人や中国人もいるわけですから。
戦時中に本願寺派が指導した教学上の二つの変更指示をご紹介いたしました。これはほんの一例に過ぎませんが、教団内のあらゆる事柄について、天皇中心主義、皇国思想にもとづいて作り直していったといってよいと思います。こうやって教団全体が戦争体制を構築して戦い、そしてその結果、「敵・味方」ともにおびただしい戦死者を生み出し、日本は負けました。