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「明治維新と本願寺」

■■■5章「(補足2)本願寺の歴史」

5-15明治維新と本願寺

王法の変化と、変わらぬ「仏法」

 長い徳川幕藩体制が崩壊し、再び天皇を中心にした政治体制に変わりました。それは議会制を持った近代国家としてのスタートでしたが、その精神的基盤として利用されたのが、この国の古代からの民族宗教であった神道であったことは、第4章で詳しくお話しました。明治維新政府の発足と同時に、無理やり強引に推し進められた神道国教化政策によって、祭政一致体制の極みともいうべき国家神道が生まれました。

 その大きな時代の転換期の中で、廃仏毀釈の風潮を受けながらも、本願寺はしっかりと生き残っていきました。王法(政治体制)の中身が大きく変わったわけですけれども、王法を先ず立てながらそれに従い、それとは無関係に心の内深くで「信心」を喜ぶという「仏法」のありようは何も変わっていません。言ってみれば、どのような政治体制になろうが、それとは無関係に安定して存続できるのが、本願寺における「仏法」であり「真宗」であったわけです。

広如消息

 第4章でもご紹介したものですが、ここでもう少し詳しくお話したいと思います。

 広如は幕末期から勤皇の姿勢を明確にしており、維新政府が成立するとそれを支えるべく本願寺を指導していきました。廃仏毀釈による仏教の危機を感じた一部の門徒衆が、政府に対する抵抗を見せました。それについて政府から本願寺門主に注文が出されます。門徒をしっかり指導してくれということです。そんな状況の中で出されたのが、この1871(M4)年の「広如御遺訓消息(こうにょごゆいくんしょうそく)」と呼ばれるものです。自分は本願寺門主を継承してから、代々受け継がれてきた教えを間違えずに40年余り教導してきた。しかしすでに老体になり死期も近いと思うので、息子に筆を取らせて一言言い残す。しっかりと聴聞してほしい。そういう前置きの後、次のような文があります。長い引用になりますが、この後の本願寺の方向を決定付ける重要な文面ですので、掲載したいと思います。

●「夫皇国に生をうけしもの皇恩を蒙らざるはあらず。殊に方今維新の良政をしき給ひ、内億兆を保安し外万国に対峙せんと、夙夜に叡慮を労し給へば、道にまれ俗にまれ、たれか王化をたすけ皇威を輝し奉らざるべけんや。況や仏法の世に弘通すること偏に国王大臣の護持により候へば、仏法を信ずる輩いかでか王法の禁令を忽緒せむや。是によりてわが宗におひては王法を本とし仁義を先とし、神明をうやまひ人倫を守るべきよしかねてさだめおかるゝ所なり、是れ則ち触光柔軟の願益によりて、崇徳興仁、務修礼譲の身となり候へば、天下和順、日月清明の金言に相かなひ、皇恩の万一を報じ奉ることはりなるべし。されば祖師上人は世の中安穏なれ仏法ひろまれとおもふべきよし示し給へり。しかるを仏教だに信ずれば、世教はさもあらばあれなど心得まどへるは悲しかるべきことなり。是によりて中興上人も王法をひたひにあて、仏法を内心にたくはへよと教へ給へり。其仏法といふは弘願他力の一法にして、兼々聴聞の通りまづわが身はわろきいたずらものなりとおもひつめて、もろもろの雑行雑修、自力疑心をすてはなれ、一心一向に阿弥陀如来後生御たすけ候へとたのみ奉る一念に弥陀はかならず其行者を摂取してすて給はず、我等が往生ははや治定し侍るなり。このうれしさをおもひ出でゝは、造次にも顛沛にも仏恩をよろこび、行住坐臥に称名をとなへ、如実に法義相続せらるべく候。希くば一流の道俗上に申すところの相承の正意を決得し、真俗二諦の法義をあやまらず、現生には皇国の忠良となり、罔極の朝恩に酬ひ、来世には西方の往生をとげ、永劫の苦難をまぬかるゝ身となられ候やう、和合を本とし自行化他せられ候はゞ、開山聖人の法流に浴せる所詮此うへはあるまじく候。かへすがへすも同心の行者繁昌せしめ候こそ老が年来の本懐に候へば、此消息も後のかたみとおもひ能々心をとゞめられ候やう希ふところに候也。あなかしこあなかしこ。

       明治四辛未年初秋下旬

   右消息者前住之遺訓而、祖師相承之宗義真俗二諦之妙旨也、浴一流輩本此遺訓進而者遵政令退而者弁出要候事可為肝要者也。

       壬申春正月                          龍谷寺務釈明如    」

                                           (『明如上人御消息集』)

   【意訳】

     「そもそも天皇様の国に生まれた者は、天皇様のご恩を受けていない者はありません。とくにこの度は明治
     維新の良き政治を始めてくださり、国内においては億兆の国民を守り、国外に向けてはすべての国にしっか
     り向き合おうと、日夜お考え下さっているのですから、僧俗問わず、誰か皇室を助け天皇様の威厳を照らさ
     なくてよいという人があるでしょうか。いわんや仏法が世に広まることは、ひとえに天皇政府の護持があれ
     ばこそですから、仏法を信ずる者はどうして政府から出された禁止の命令をおろそかにしていいことがあり
     ましょうか。これによって私たちの宗では、王法を根本として道徳を大事にし、神々を敬い世間の倫理を守
     るということは、かねてより定められているところです。これはすなわち、触光柔軟の願の利益によって、崇
     徳興仁務修礼譲の身となるのですから、天下和順日月清明の金言にも相応し、天皇様のご恩にほんのわ
     ずかでも感謝申し上げることになるのです。ですから祖師親鸞聖人は、『世の中が安穏になり仏法が広
     まってほしい』と思うべきであるとお示しくださっています。そうであるのに、仏教だけを信じていれば、世間
     の教えはどうでもよいなどと心得違いをしているのは悲しいことであります。これによって中興蓮如上人も
     『王法をひたいにあて、仏法を内心にたくわえよ』と教えくださっています。この仏法というのは弘願他力の
     教えであって、かねがね聴聞されているとおり、まずわが身は悪い心を持った虚仮なる者であると思いつ
     めて、さまざまな雑行雑修や自力の疑心を捨て離れ、一心一向に阿弥陀如来に後生をお助けくださいと
     頼み込む一念があれば、阿弥陀如来は必ずその人を摂取して捨てられず、私たちの往生はその時に定
     まるということです。このうれしさを思うならば、ほんのわずかな時間すらも仏恩をよろこび、寝ても覚めて
     も念仏を称え、そのとおりに教えを続けるべきであります。望むところは、この教えの流れを汲む人たちは、
     今申し上げたこれまで受け継がれてきた教えの正しい心をしっかり受け止め、真俗二諦の教えを誤らず、
     現実の社会にあっては皇国の忠義な国民となり、限りない天皇様のご恩に報い、来世には西方浄土への
     往生をとげて永遠の苦難を免れる身となられるよう、和合を大事にして自らが行じ他を導かれくだされば、
     親鸞聖人の教えに出会えた意味はこの上ないものになります。くり返し申し上げますが、同じ心の念仏行
     者が繁昌してくださることこそ、この年寄りの長年の望みでありますので、この消息も後の形見と思って
     しっかりと心に留めてくださるよう願うところです。敬具。

        明治四年辛未初秋下旬

       右の消息は前住職の遺訓にして、祖師から相承された教えである真俗二諦の大切なお心である。
       この教えに出会う者たちは、この遺訓を本として、進んでは政府の命令に従い、退いては出離の
       要道を語ることを、肝要となすべきである。

                 壬申春正月                           龍谷寺務釈明如   」

 長文の引用で恐縮です。明治以降の本願寺の姿勢は、この一文に集約されていると言っても過言ではないと思います。簡単に内容を整理しておきますと次のような感じです。

   ①新しい天皇の時代になった。

   ②天皇はこの国のために日夜考えてくれている。

   ③この国に生まれた者は、天皇の政府を支えねばならない。

   ④とくに、仏教が広まるのも天皇政府のおかげだ。

   ⑤よって、政府が出す禁止の命令は守らねばならない。

   ⑥自分たちの宗旨では、王法を根本として道徳を大事にし、神々を敬い世間の倫理を守るということが、
    以前から定められている。

   ⑦このことは、仏の願によってりっぱな人間になることであり、経典の示す世の中のためにもなり、天皇の
    ご恩に報いることになる。

   ⑧親鸞はそのことを「世の中が安穏になり、仏法が広まってほしい」と言っている。それなのに、世間の教
    えはどうでもいいと言う人がいるのは悲しいことだ。

   ⑨蓮如は「王法をひたいにあて、仏法は内心に蓄えよ」と言っている。

   ⑩この他力の教えは、自分は悪い人間だと思い詰めて、ただ念仏を称えて「後生をたすけてください」と頼
    めば、アミダ仏に助けられる。そのうれしさから常に念仏を称えるようになる、というものだ。

   ⑪真俗二諦の教えを守り、現実の社会では天皇政府の忠実な国民となり、死んだら浄土へ往生して永遠
    に苦しみから離れる身となってほしい。

   ⑫この真宗が繁昌してほしいので、この手紙も形見と思ってしっかり読んでほしい。

   ⑬(明如の追伸として)この手紙は前住職の遺言であり、親鸞から受けついた真俗二諦の大事な心が説か
    れている。これを手本として、政府の命令に従い、またこの教えを伝え残さねばならない。

 従来からの本願寺の伝統的な念仏理解を踏襲しながら、新しい天皇政権に忠実に従って生きるよう、本願寺門徒としての現実的在りようを示しています。とくに「皇恩」「朝恩」という言葉で天皇の恩を強調し、それに報いるのが「念仏」的生き方であるとしているのは注目すべきです。それまでの「ひたいにあてる」姿勢からより一歩前に出て、積極的に天皇政権を支える力になろうとする思いが表れています。また神祇にたいしても、これまでのような「軽んじない」とか「疎略にしない」という姿勢から、「神明をうやまひ」という表現に変わっています。それは「内心にたくわえる」ものとしての仏教と、現実世間を生きる者の務めとしての「世教」とを並列的に扱っていることからも伺えます。このあと明治政府が取り入れていった「神社非宗教論」を、先取りしていったものと言えます。

真俗二諦

 この文面でもっとも大事なことは、「真俗二諦(しんぞくにたい)」という言葉が使われていることです。覚如による本願寺の成立以来、王法と仏法という言葉で語られてきたことですが、ここでは門主の言葉として「真俗二諦」が使われ、しかもそれが「祖師相承之宗義真俗二諦」と親鸞さんから受け継がれたものであると語られていることです。

 「真俗二諦」については、後日本願寺の戦争責任をお話しするときに、もう一度触れねばならないと思っています。ここでは簡単にその言葉の説明と、この消息での使用についてお話しておきたいと思います。

 「真俗二諦」とは、「真諦」と「俗諦」の二つの「諦」という言葉です。「諦(たい)」という言葉は、「明らかにする」という言葉であり、仏教では「真理」と同じ意味で使っています。つまり、真理には「真諦」と「俗諦」と二つある、という言葉です。「真諦」という言葉のもともとの意味は、言葉では表現できない究極の真理というようなことです。それに対して「俗諦」とは、その真諦を言葉によって表現したものと言えます。たとえばおシャカ様が悟られた真理そのものは真諦で、それを言葉によって表した教典は俗諦である、というようなことです。

 ところが今この消息で使われている「真俗二諦」はまったく別物です。この消息だけでなく、本願寺の歴史において使われている「真俗二諦」はすべてそうです。どのような意味で使われているのかと言えば、次のようなことです。

   「真諦」・・・仏教における真実。仏教のこと。

             本願寺における一連の念仏理解の中では、「仏法」という言葉で語られてきたもの。

   「俗諦」・・・世俗における真実。人間社会での法律や道徳など。

             本願寺における一連の念仏理解の中では、「王法」という言葉で語られてきたもの。

 そしてこの二つの「諦」はどちらも大事であり、どちらが欠けてもだめだということです。「二諦相資(にたいそうし)」「二諦相依(にたいそうえ)」という言葉で江戸時代から語られていたようです。存覚の「車の両輪のごとし、鳥の双翼のごとし」という例えがよく使われました。

 今この消息では、「真俗二諦」が意味する内容として、「現生には皇国の忠良となり、罔極の朝恩に酬ひ、来世には西方の往生をとげ、永劫の苦難をまぬかるゝ身とな」ることだと説かれています。内容的には、これまで語られてきた「王法を本とし仁義を先とし、仏法は内心に蓄える」ということと同じですが、この消息では現実における王法とは時の天皇その人であるということを、「皇国、皇恩、王化、皇威、国王、皇恩、皇国、朝恩」と何度もくり返すことで強調しています。そして「王法の禁令」を守ること、「政令に遵」うことが、真宗念仏者の現実社会における姿勢でなければならないと教えるのです。

 このような本願寺の対応を評価して天皇は、1876(M9)年に本願寺に対して「見真大師(けんしんだいし)」(親鸞への諡号)を、1882(M15)年に「慧燈大師(えとうだいし)」(蓮如への諡号)を与えています。本願寺はそれを今もなお、有難そうに掲げているのです。

 ちなみに、この消息は今も生きています。後日お話できるかも知れませんが、2004年に本願寺派本願寺は、「宗令第2号、宗告第8号」というものを出し、形ばかりの戦後責任を取ったふりをしました。その中で、1931(S6)年から1945(S20)年までに出された門主からの消息等は今後使わない、としました。ですので、この1871(M4)年の広如の消息はその対象になっておらず、今も生きているのです。この消息を問うことなしに、本願寺の戦争責任は問えるはずはありません。


by shinransantoikiru | 2020-06-09 11:33 | 親鸞さんの仏教