人気ブログランキング | 話題のタグを見る

「江戸幕府と本願寺」

■■■5章「(補足2)本願寺の歴史」

5-14江戸幕府と本願寺

寺請制度


 徳川家康によって開始された江戸幕藩体制は、1603年から260年余りに及びました。その長期安定政権を維持するために、さまざまな民衆統治機構が作られたわけですが、その一つが寺請制度(てらうけせいど)でした。

 もともと幕府が禁止したキリスト教と、日蓮宗の一派である不受布施派の信徒を見つけ出し、排除させるための制度でしたが、民衆管理の制度として大きな役割を持ちました。不受布施派というのは、秀吉の出仕要請を拒否した時から体制側と一線を画し、そのために弾圧され続けた一派です。

 すべての人は、必ず寺が発行する寺請証文を受ける必要があると定めました。それによって幕府が定める邪宗ではないことを証明させたわけです。そうなると、民衆は必ずどこかの寺の檀家にならねばならないということになります。そのため寺檀制度と呼ばれることもあります。寺では宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)という帳面を作り、檀家を管理しました。それはちょうど今の戸籍のようなものであり、たとえば檀家が引越しをするときなどは、檀家であることを証明した寺請証文が必要であったわけです。つまり、寺は役所の仕事をしたわけです。この寺請証文を受けなかった場合は、無宿人などと呼ばれ、一般の社会生活から除外されることなどがあったようです。

 また各家には仏壇を置き、法要には僧侶を招く習慣も定められました。これによって寺には、一定の信徒と収入の保証が与えられました。自分の努力とは関係なしに収入が保証されたとき、人間はどうなってしまうのかという結末が、今現在の仏教寺院の姿であると言ってもよいのかもしれません。いやそこに胡坐をかいていられた時代は、もうすでに終わったというべきなのでしょうか。

 幕府は各仏教教団を管理し、本末制度により、本山は末寺を管理しました。そしてその末寺によって、一般民衆は管理されたわけです。寺は幕府の民衆統制を担う出先機関、役所という位置づけになり、経済基盤が与えられ、政治権力の元に完全に組み込まれました。当然のことながら、本願寺もまたこの制度のもとで幕府機構の一部として組み込まれたわけです。

学問としての「念仏」

 さて、戦国時代とは状況が一転しました。武装して血なまぐさかった寺院も、お役所仕事をすることになったのですから、それは穏やかなことだったのでしょう。ならば落ち着いて伝道教化活動を・・・と言いたいところですが、すでにそんな姿勢はすっかり失っていました。

 そんな状況の中で盛んに行われ始めたのが、「仏教」の学問的体系化でした。のちに江戸宗学と呼ばれることもありました。現実の人間社会の中での苦悩に向き合おうとしたのがブッダ以来の仏教でしたが、ここに至っては、「仏教」は机の上での空虚な理屈の積み上げに終始するようになってしまったのです。

 そんな中から、「安心」についての論争も起こりました。いくつかの大きな論争があったようですが、その中でも大騒動になったのが、「三業惑乱(さんごうわくらん)」と呼ばれたものでした。三業というのは、「身業、口業、意業」のことで、仏教で言う三つ(身体と口と心)の行為のことです。で、この論争というのは簡単に言いますと、次のようなことでした。

 きっかけは北陸で広まっていた念仏理解で、「無帰命安心」などと呼ばれ、次のようなものでした。

     ・人間の救いはアミダ仏がすでに成就したことであり、それを信ずることが信心だ。

     ・人間のほうから帰命する必要はないというのが他力の教えだ。

 これに対して、本願寺の学問上のトップである能化(のうけ)から反論がでます。「三業帰命説」などと呼ばれ、次のようなものでした。

     ・人間のほうから三業を通してアミダ仏に帰命しなければならない。

     ・三業に、帰命する心が表れなければならない。

 これが公の場などで平気で語られたものですから、地方の僧たちから激しい反論が出てきました。「一念帰命説」などと呼ばれ、次のようなものでした
     ・三業をもって帰命しなければならないというのは自力であって、親鸞さんのいう他力とは違う。
     ・他力と言うのは、アミダ仏の誓願を信ずることだと

 在野の僧が批判論を出版すると、本願寺がそれを発禁処分にするとか、美濃では門徒たちによる暴動騒ぎが起こったり、次々にいろんな騒ぎが引き起こされました。そして最後には京都所司代や幕府までが動き、10年に及ぶ大騒動になりました。その時本願寺当局は、ただ右往左往するだけでした。それを見取った幕府(寺社奉行)が最終的な裁決(「一念帰命」を唱えた在野僧の勝ち)を下し、本願寺はそれを承認するという結末でした。

 なんともむなしいことです。言うまでもありませんが、すでに真宗が真宗でなくなり、仏教が仏教でなくなってからずいぶん久しくなっていた時代の話です。信心が何かも見失われた中で、空論が戦わされているのです。どちらの「安心」も、ただの自己満足煩悩肯定の、非真宗非仏教に過ぎません。今でもきっと、そんなことを真剣に「研究」している方々がおられるのだろうと思います。

 


by shinransantoikiru | 2020-05-28 11:41 | 親鸞さんの仏教