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「浄土って?の質問集めました」

■■■第3章「親鸞さんの教え」

★3-18浄土って?の質問集めました」


168.png147.png勉強会での質問から

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≪Q≫ 「法楽楽」が本当の楽で、それ以外はみんな苦につながっていくってことですよね?私が「法楽楽」にたどり着くことはできないから、結局、自分は苦しか作らないということですね?

≪A≫ そうです。以前「四法印」というのを学びましたね。「諸行無常」(すべては変化していく)、「諸法無我」(すべては関係しあっている)、なのに私たちは自分に執着しているからそのことが分からない。だから「一切皆苦」(すべてが苦しみになる)。そこからのがれる道が「涅槃寂静」(さとり)。親鸞さんはそれを「浄土往生」で説明しているんです。

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≪Q≫楽には種類があるということですが、苦には種類はないのですか?

≪A≫仏教の言葉としては出てこないけど、実はこの「楽に三種あり」の裏返しが「苦」についても言えるのです。ですからこうなりますね。①の苦は、自分の欲望が満たされない苦しみ。②の苦は、欲望から離れた心の静かさがない苦しみ。③の苦は、自己執着を離れて、十方衆生と共に生きようとしていない苦しみ。ということです。私たちは何番目の苦で苦しんでいますか?①ですよね。自分の思い通りにいかないときに、腹が立ったり怒ったりイライラしたり・・・。ではアミダさまが見ておられる私たちの苦は何でしょう?それが③です。人間は自己執着(煩悩)から離れられないから、いつも争い苦しみを作っているんだと。だからその裏返しの「法楽楽」を教えようとしているのですね。この前、本願寺の壁に掲示してあった垂れ幕の話をしましたね。あそこに出てきた住職さんの「テストが嫌だった。人と点数で比べられるから」というのはどうですか?①ですね。仏教と出会うというのは、仏の目を通して、③の十方衆生全体へ視野を広げることを教えられるということです。つまり自分の煩悩(自己執着心)に気付かされていくということです。

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≪Q≫私は、人間死んだら、炭素や窒素とかに分解してオワリだと思っているのですが、さみしいです。ヒンズー教なんかでは、死後はものすごい幸せな世界に行ける、と言ってみんな楽しみにしているそうです。

≪A≫それが、図でお話しました「欲望の延長」です。楽でしょうね。自分の思い通りの世界に行くことが決まったのですから。もう、あとは野となれ山となれ、好きに生きればいいや、という。

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≪Q≫この勉強会に出るまで、真逆の理解をしていました。「死んだらいいとこへ行く」ってじいちゃんばあちゃんは言っていたし、親もそう。この間、勉強したことを家族に話していたら、母が「自分がつらい状況にいるとき、死んだらいい所へ行くんだということだけがなぐさめになっていたんだけど・・・じゃあ、そういう人はどうすればいいの」と言っていたけど、今日の話を聴いていて、つらいことの原因というか、なぜそうなったのか、ということをたどっていくような方向のことなのかな、って思いました。

≪A≫自分の苦しみをのがれるということ・・・についてだけど。もう少し後ですが、妙好人(みょうこうにん)と呼ばれる人のことを学ぶんですけど、こんな人がいたのです。とても立派な人だと言われていました。何をされても怒らない人だったんです。ある時ある人が、ためしにその人の所へ行って、草取りしている背中をいきなり蹴飛ばしました。蹴り飛ばされたその人は、何事もなかったように元の場所にもどり、もくもくと草取りを続けました。もう一回蹴飛ばしました。けれどもまた何事もなかったように草取りを続けました。「何で腹がたたないんだ?」と聞いてみると、「これは前生の借金払いだ。まだまだ借金が残っているようだ」と答えたと言います。ある仏教学者なんかは、この人のことを大絶賛しました。

 蹴飛ばされたら痛いですし、転ぶのは嫌です。その自分の苦しみを、この人は瞬時に解消する技を持っているわけです。それが「前生の借金払い」という物語です。前の生で自分が何らかの悪いことをやったため、そのつぐないを今の生でやっているんだということです。そういうストーリーを作り上げることで、いやなときはそこに逃げ込み、気持ちを切り替えることで解消するのです。どうですか?これが上手に出来れば、一瞬で楽になれますよ(笑)。

 でもこれはまさしく、自己満足でしかありませんね。決定的に抜け落ちているのは、「苦しみの原因」です。蹴飛ばされて痛い思いをしたというのは、相手があってのことです。この人の場合、蹴飛ばしてきた人のことは、まったく自分の意識の中にあがってきません。「あなたはなぜ私を蹴飛ばすのか?」という問いすら出てきません。相手を責めないから良い人ですか?そうじゃないですね。相手のことなどどうでもいいのです。自分が楽になることだけが大事なのでしょう。アミダ仏の願いに立てば、自分とその相手は同朋です。訳もなく人を蹴飛ばすというのは愚かなことですし、罪です。その相手の罪を、同じ愚かな人間どうしとして一緒に考えようというのがアミダ仏から示される方向です。

 以前瀬戸内寂静さんの法話を読んでいましたら、自分の夫が浮気したと嘆く人に対して、「自分の好きな人を、他人も好くんだ」と思えば辛くない、と言っていました。これも同様のすり替えですね。ここには夫はまったく問題になってこない。「夫が裏切った」というところに今の苦しみがあるのに、そこを見ようとしない。自分と夫との関係を作り直していく方向でしか、問題は解決しないわけです。そういう道は面倒だから、すぐに安直な自己満足に入ろうとするのですね。仏教は自己満足ではありません。


by shinransantoikiru | 2019-09-25 07:00 | 親鸞さんの仏教