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「浄土ってどこにある?」

■■■第3章「親鸞さんの教え」
★3-16浄土ってどこにある?」

浄土ってどこにある?

 お浄土の話を続けましょう。それでは浄土という世界はどこにあるのでしょうか?「おとぎ話・昔話」的理解で言えば、「死んだ後にある」ということになるのでしょう。私との関係で言えば、「私が死んだ後に行く世界」ということになるのでしょう。そういう理解が根底から間違っているということは、これまでのお話を読んでいただければご理解いただけると思います。アミダという仏が私に働きかける存在であり、そのアミダ仏の建立した世界が浄土であれば、浄土もまた私に働きかける世界としてあるということは、当然のことであるわけです。その私が「いる」場所が「ここ」であるわけですから、浄土もまた「ここ」と密着して「ある」ということになります。

 図を描いてみました。

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※①「生死」●「しょうじ」と読みます。生まれてから死ぬまでの道。人生。生と死は離れているのではなく、表裏です。現在私たちは「生」という表を生きているのですが、常に裏には「死」を抱えているのです。死を抱えながら生きているのです。ちょうど一枚の紙の裏表のようです。表が出ている紙も、ひとたび風が吹けば簡単に裏返ります。私たちの命も同じです。

※②「本能」●生の原動力。自分を生かし続けたいという根本的な欲望。生まれてから死ぬまで消えることはありません。つねに苦をきらい楽を求めます。それは自ずと自己中心的な生き方につながります。そこから生まれる愚かさを、仏教では煩悩と呼んでいます。

※③「死」●生があれば必ず死があります。死は、生き続けたいという私の本能から言えば、もっとも避けたい現実です。それを正面から受け入れることが大きな苦痛であるため、私たちはそれを誤魔化そうとします。誤魔化して少しでも楽な気持ちになろうとします。その一つの方法が、生の延長あるいは続編?として、死の後に更なる世界を求めようとすることです。では、もし死後にもう一つの世界がもらえるとしたら、どんな世界を求めますか?苦しい世界ですか?楽な世界ですか?私たちの本能からすれば、当然楽な、自分の思い通りになる世界を求めますね。「この世は嫌なことばっかりだったから、次の世界こそ楽~に好きなように生きていきたい!」。つまり「極めつけの楽な世界」。それを極楽・浄土と勘違いしてしまうようです。前回お話しましたように、浄土の楽は、3番目の法楽楽でした。十方衆生とともどもに喜び合う世界でした。人間が死後に欲しがる「極めつけの楽な世界」は、単に欲望から生まれた「欲の塊(かたまり)」に過ぎません。

※④「浄土」●それでは浄土とはどこにあるのでしょうか?この図で示せば、この大きな楕円です。私の生から死までの全体を包み込んでいる大きな世界。命あるものすべて(十方衆生)を真実の生へ導きたいという、アミダの願いによって建立された世界です。

※⑤「願い」●アミダ仏の本願。「あなたの人生を本当に尊いものにしてほしい。命と命のつながりである現実社会のあり方を考えてほしい。そのための手本としてアミダの心、浄土の世界を仰いでほしい」。その願いが、私の人生のあらゆる瞬間にかけられているのです。念仏とはその願いを聞こうとすることです。願いを聞くとは、現実の私、現実の人間社会が、「それでよいのですか?」と問われてくることです。

※⑥「今」●という存在、私の命は、どこにあるのでしょうか?人生は数十年あります。数十年というと長い時間です。しかし昨日までの時間はすでに消えてしまった時間です。二度と取り戻せない時間です。ということは、私にある時間は、今から後の人生です。では後どれくらいあるのでしょうか?1年ですか?10年ですか?いや、1ヶ月かもしれません。いや、1日かもしれません。いや、1分後に突然の事故で死ぬかもしれません。そうなりますと、私の間違いない命は、「今」というこの一瞬だということになりますね。先ほど、浄土は私の生から死までの全体を包んでいると言いましたが、私と浄土、私とアミダ仏との接点は、実は「今」というこの一瞬しかないのです。

※⑦「信心」●そしてその今という一瞬一瞬に、途切れることなく掛けられ続けているアミダ仏からの願いに耳を傾けようというのが念仏であり、それによって私自身が問われ、現実の人間社会が問われ、アミダ仏が指し示す方向をうかがいながら「今」を生きようというのが、親鸞さんのおっしゃる「信心」の中身であるわけです。

※⑧「往生」●「おうじょう」と読みます。往生とは、浄土へ往き生まれること。私と浄土との接点が今でしかないのですから、私にとっての往生も、今でしかありません。浄土へ往生して仏になるのは、私の生が死を迎えた瞬間です。まだ生を生きている間は、私たちは煩悩だらけの人間です。しかしそれは「浄土へ導かれている命」です。「信心のさだまるとき、往生またさだまるなり」と親鸞さんは言っておられます。私たちにとって大事なことは、死の一瞬ではなく、今という生の一瞬一瞬なのです。

 浄土は、私たちが欲望で作り出した「死後のよい世界」でもなく、「自分の思い通りになったとき」でもありません。私たちの人生のすべてを包み込み、今現在の私に願いをかけ続けておられる世界です。つまり、私たちは浄土の働きの中にいるというわけです。


by shinransantoikiru | 2019-09-23 09:54 | 親鸞さんの仏教