2019年 09月 02日
「『問題になってくる』とは、どういうこと?」
■■■第3章「親鸞さんの教え」
★3-9「『問題になってくる』とは、どういうこと?」
■親鸞さんの言葉に、直接きいてみましょう。
前回まで、アミダさまの願いとか、念仏を称えることとかについてお話してきましたが、その中で何度か、「私自身、そして私が生きているこの人間社会が、アミダさまから問われてくる。問題になってくる」という言い方が出てきました。この私と社会が問題になってくるというのは、どういうことなのでしょうか。もう少しくわしく考えてみましょう。
親鸞さんの言葉をまずご紹介したいと思います。親鸞さんの言葉は鎌倉時代のものですから、当然難しいものです。でも、とても大事なものばかりですので、なるべく原文を出して、それを今の言葉に直しながらご紹介したいと思います。
「仏の御名をもきき、念仏を申して久しくなりておはしまさんひとびとは、この世のあしきことをいとふしるし、
この身のあしきことをばいとひすてんとおぼしめすしるしも候ふべしとこそおぼえ候へ。」(お手紙から)
【意訳】
「アミダさまの名前を聞いて、念仏を称えるようになって長くなった人には、この世の中の悪いことを
≪いとう≫しるしと、この自分自身の悪いことを≪いとい≫捨てようと思うしるしもあるのだとお考えください。」
「この世」とは現実の人間社会です。そして「この身」とは、そこに生きている私自身です。「あしき(悪しき)こと」は悪いこと、間違ったこと、悲しいこと、愚かなことなどです。そして「いとふ(厭ふ)」という言葉がとても大事です。親鸞さんの教えを学ぶ上での重要キーワード3つのうちの二つ目です。「厭う」は、いやだ、きらいだ、これはおかしいぞ、という意味の言葉です。
アミダさまという仏の存在を知って、ナンマンダブと念仏を称えるようになった人には、「しるし」つまりそうなったことの証し(あかし)、証拠、そうなったことが確認できるサインがあるのだというのです。それはどういうものかと言うと、真実であるアミダさまの視線を受け止めると、私たち人間の姿が、いかに真実でないのかが見抜かれるということなのです。間違いだらけだよ、と。「ああ、間違っていたのだな」と気付かされると、「捨ててしまいたいな」と思うものだよ、と言うのです。
では私たちは「この世」「この身」を捨てる事ができるでしょうか?
生きている限り、「この身」は私の命の具体的な姿であり、その私の存在場所として「この世」があるのですから、そこから離れるということは死ぬまでありえません。親鸞さんの教えが「死ね」というものでない以上、「いとふ」というのは単純に「捨てる」ということとは違うようです。
つまり、離れることの出来ない私の現実とこの世の現実を、「間違っているなー」と問題にさせられ続けるということになるのでしょう。しかもその内容は、アミダさまの絶対的に大きな心から照らされて問題になるということですから、「なんて小さいんだろう」「悲しいことだなー」「差別的だなー」「情けないよなー」「だからケンカになっちゃうんだよ」と、私自身の自己執着性が否定的に問われてくるということですし、同時にこの人間社会がそれによって成立しているということを否定的に問題にさせられてくるということになるわけです。
■新たな価値観との出会い
価値観という言葉を使って考えてみることもできます。
私たちは知らず知らずに、自分が生まれ育った社会の価値観を身につけています。世の中の常識的なものの考え方、見方と言ってもいいかもしれません。たとえば仕事が速く出来る人と遅い人がいれば、速い人のほうが優れていると普通に思っています。勉強の成績が良い子と悪い子がいれば、良い子のほうがすぐれているというのが社会の常識です。走るのが速い子と遅い子がいれば、速い子のほうが「すごいね」と言われます。
そういう価値観からみれば、「優れた」人間のほうがスムーズに社会を生きてゆき、経済的に豊かに暮らせるという「この世」「この身」の現実は、あたりまえであるし、妥当であり、当然だと思われるはずです。
ところが、そういう人間に、アミダの本願という別の価値観が与えられてきます。十方衆生(みんな)が喜びを共有することに価値を見出すという世界です。もとより私たち人間にはそのような視点はありません。そんな私たちが、縁あってアミダ仏の願いを聞く身になります。すると、これまで常識、当たり前だったことがらが、「それでよかったんだろうか?」と疑われてくる、問われ直されてくる、ということが起こります。アミダ仏の目から見ると、「この世」「この身」の現実は、悲しいこと、愚かしいこと、情けないこと、なのかもしれないなーと。
そういう出会いを、親鸞さんは私たちに勧め、また、それによってしか、人間が苦悩を乗り越える道はないのだと、教えておられるようです。