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「アミダ仏って本当にいるの?」

■■■第3章「親鸞さんの教え」
★3-6アミダ仏って本当にいるの?」


「アミダ仏って本当にいるの?」


 法話の中で、「ところで皆さんは、アミダ仏って本当にいると思いますか?」と聞いたことがあります。ニタッと笑う人がちらほら。このニタッは、「そんなこと言い出したら始まらんだろう・・・」っていう意味かなと思います。私たちが仏教を学ぼうとするとき、「仏とは・・・」とか、「アミダ仏は私たちに・・・」とか、初めから仏という存在を認めた上で話をしていませんか?これは先日余談として書いた部分で、仏教が「おとぎ話・昔話」として扱われているとお話したことにつながります。「昔むかしあるところに・・・桃太郎という男の子が・・・」と語られるとき、「ちょっと待った!桃太郎なんて本当にいたのか?」なんて誰も言い出しませんよね。これと一緒です。主人公の存在を疑ったのでは、その物語は始まりません。浦島太郎にしても、ウルトラマンにしてもそうです。しかし今私たちが仏教を学ぼうとするのは、おとぎ話・昔話を学ぶのではありません。創作された主人公による物語を学ぶのではありません。私自身が主人公である私の命、私の人生を学ぼうとしているのです。その私を常に照射する存在として、アミダ仏が登場するのです。ですから、このアミダ仏が本当に存在するのかどうかは、とても大事なことです。そこからじっくりと取り組まなくてはなりません。


「信ずる」ということ

 宗教というものは頭っから信じなきゃ始まらない、と思っている人もおられるかもしれません。先ほど言いましたようにそれは間違いです。親鸞さんも、決して私たちに自分の考えを押し付けたりはしません。「○○を信じなさい!」などという言い方もどこにもありません。

 でも、親鸞さんは「信」という言葉をとてもとても大事にされました。これから学んでいく「信心」という言葉もそうです。いったい「信ずる」というのは、どういうことなのでしょうか。

 ここに二つの言葉を出してみます。この二つ、よく似ていますが少し違います。どう違うのか考えてみましょう。

A=「あの人はウソを言わない人だと、私は信じている」

B=「あの人はウソを言わない人だと、私は知っている」

 いかがですか?「信じている」と「知っている」という言葉の違いですが、意味的にはどう違うと思いますか?

 寺での勉強会で聞いてみました。いろんな意見が出ました。Aのほうは、「信じたい」「希望的…」「もしかしたら、を覚悟して…」などの意見が出ました。Bのほうは、「考えるまでもなく…」「あたりまえ…」「確信」などの意見がありました。

 次にこう聞いてみました。「では、『あの人』と『私』との関係は、AとBとどちらのほうがより深いと思いますか?」これには、Aが深いという意見と、Bが深いという意見がありました。多かったのはBが深いという意見で、Aは関係が浅いから「信じたい」と思い、Bは関係が深いから事実としてそう知っていると。付き合い始めて2~3日の人と、もう30年も付き合ってきた人とでは、ずいぶん違うでしょう。「あの人は悪い人じゃないから、まさかウソではないと思うけど…いや信じています!信じます!」というのと、「あの人がウソを言うわけがない。私が一番よく知っているよ」という違いでしょうか。またAのほうが深いという意見では、Aのほうが「信じたい」という強い思いが込められているから、というものでした。例えば親がわが子に対して「ウソは言っていないと信じているよ!」という場合などがそうでしょう。これは関係の深い浅いというよりは、相手への執着心の強い弱いということでしょうか。わが子には絶対にこうであってほしい、という強い親の思いがあるようです。

「疑う」ということ

 もう一つ考えてみましょう。Aの「信じている」にはあって、Bの「知っている」にはないものは何でしょう?それは「もしかしたら~~」という「疑い」というものでしょう。疑いがあるから、「信じているよ!」と力む必要があるのでしょうね。Bの場合は、そんなの当たり前、当然、という感じですかね。

 世間では「信ずる者は救われる」とか、「ええ、疑っているの?」とか言います。疑うということは悪いことのようなイメージですね。

 親鸞さんの言葉にこんなのがあります。

 「もしこの書を見聞せんもの、信順を因とし、疑謗を縁として・・・」(「教行信証」)

 「もしこの書物を見たり聞いたりする人は、信じしたがう心を因として、疑い謗る心をご縁として・・・」

という言葉です。ここでは「疑いそしることを大事なプロセスとして」と言われるのです。「疑ってはいけませんよ」ではなくて、「疑う心はとても大事で、その疑いを追及する中で・・・」とおっしゃるのです。

 では私たちは、なぜ疑うのでしょう?「本当なの?」「大丈夫かな・・・」「どうもあやしいな・・・」。疑うというのは、その対象に、何らかの不安や心配があるからではないでしょうか。逆に言うと、その不安や心配がなくなれば、疑いもなくなってくるということになりそうです。ではどうすればよいのでしょうか?

「うなずく」ということ

 以前は出先で道に迷うことがよくありました。最近はカーナビがあって助かっています。でもこんなときはないですか?山の中の目的地へ行こうとしています。カーナビは右です左ですとどんどん教えてくれます。しかしだんだん集落がなくなってきて、山深くなってきました。「大丈夫かな~?」「この道で間違いないんだろうか?」って不安になってきます。「このカーナビ古いからな~。間違っているんじゃないのかな~」と疑いが出てきます。さあそんな時、あなたならどうしますか?

 おそらく誰かに聞いてみようと思うでしょうね。ちょうど畑仕事をしている人がいました。「すみません。○○寺へ行きたいのですが、この道でいいのでしょうか?」「はい、この道でいいですよ。あと1キロほど行くと左側に屋根が見えてきますよ」。これで安心しますよね。よかった、間違っていなかったんだ、と先ほどの不安心配はなくなって、カーナビへの疑いも消えています。

 親鸞さんの答えも実はそれでした。「聞」(もん)。よく聞きなさい。本当のことをよく聞きなさいと。次のような言葉を引用されています。

 「衆生、仏願の生起本末を聞いて、疑心あることなし、これを聞というなり。」(教行信証。大経引文)

 (私がアミダ仏の願いの起こされたわけをよく聞いて、なるほどとうなずけた時、疑う心はなくなるのです。これを聞というのです。)

 「疑心あることなし」というのは、疑ってはいけないというのではなくて、疑う心がなくなるということです。そのためには聞きなさいと。聞くことを通して「あ~、そういうことだったのか!納得しました!」とうなずけるんだと。うなずけた時、すでに疑いは消えてなくなっているのだと。

 テレビ番組で「ためしてガッテン」というのがありますよね。例えば病気や健康の話題で、最新の研究情報を提供すると、出演者たちが「ええ!?本当ですか!?」と疑いの姿勢を見せます。では試してみましょう、ということで番組のスタッフたちがいろいろ実験してみます。例えばある運動を10日間続けてみました、というように。するとその結果、このように明らかに効果が現れました、と。さらに大学の先生やお医者さんをゲストに呼んで話を聞きます。そして最後に「ガッテンしていただけましたでしょうか?」「ガッテン!ガッテン!」で終わります。

 ここにあるのが、疑いから始まり、その疑いへの追及(実験や学習など)、その結果へのうなずき(ガッテン)、疑いの解消、という筋道です。

 さて、親鸞さんはこの聞と、それにともなううなずきを、「信」という言葉で表しておられるのです。ですから、親鸞さんのおっしゃる「信」は、私がこれこれを信じます、という意味ではなく、アミダ仏からの願いを聞いていく中で、うなずけたということです。「アミダさまってこんなお方だと分かった」「アミダさんと生きるというのは、こういうことだったんだとうなずけた」って感じです。それが実は、先ほどのAではなくてBという状態になるということなのです。疑いがなくなって、そういうことだったんだとうなずけていく状態。後で出てくる「自力・他力」や「信心」も、こういう概念です。

アミダ仏の存在

 さて、あらためて「アミダ仏っているのか?」を考えてみましょう。

 まず私たちが物の存在を認めるのは、普通目の前にそれがある、つまり自分の目にそれが見える。または目をつぶっていても、例えば手で触ることによって、ここにあると認識できる。または見えなくて触れもしないけど、鳥の鳴き声のように耳に聞こえてくるから、「いるな」と分かる。私たちの五感によって認知できるものを「存在」として認めているようです。

 ではそれ以外はどうでしょうか?例えば空気。見えないし、触ることもできないし、聞くこともできないし、匂いもないし、味もない。でも空気の存在は誰もが認めています。それはなぜでしょう?なぜ、空気が存在していると分かるのでしょうか。

 以前チベットを旅行したという人の話を聞いたことがあります。4000メートルよりもさらに上に上がると、息をするのがつらいということでした。空気が薄いということでしょうね。逆に下に降りてくると息が楽になるのでしょう。そうなると、なるほど空気があるのだということが実感できるのかもしれませんね。山に登らなくても、水の中にもぐっていれば同じ体験ができるのでしょうが(^^;)。この「息ができる」ということを通して、私たちは空気という五感では認識できないものの「存在」を知ることができるわけです。これは空気の働きと言っていいと思います。

 そのもの自体は五感では認識できないけれども、それがもたらす働きを実感するときに、そのものの存在を認めることができる。アミダ仏の存在もまさしくそういうものだろうと思います。アミダ仏の働きを実感するときに、アミダ仏の存在を認めることができる。そうなりますと、アミダ仏の働きって何だったっけ?ということですが、これは前回★3-5「アミダの願いと十方衆生」でお話しました。簡単に言うと、アミダの働きは願いであって、その中身は「私が仏になったら、世の中のみんなを、本当の幸せに導きたいんだ」というものでした。そして私たち人間は、本性としてその願いを妨げるもの(=煩悩)を抱えているということを知ってほしいということでした。自分の本性としての煩悩に気付いていくことを通して、何が本当の喜びであるのかをアミダの願いに聞いていこうという道が始まるというのでした。

 さて、やっとここで先ほどの「信ずる」「疑う」「うなずく」という話につながります。

 先ほど出した親鸞さんの言葉。

 「私がアミダ仏の願いの起こされたわけをよく聞いて、なるほどとうなずけた時、疑う心はなくなるのです。これを聞というのです。」

 私たちがアミダの願いに耳を傾けることを続ける中で、人間、そして私自身の、自己執着の悲しい姿に少しずつ気付いていきます。「ほんとうだなー」と思えるときがあります。「だから対立するんだなー」とうなずける時があります。「なるほどなー、アミダ仏の願いはこういうことを知らせようということだったのかなー」とガッテンすることがあります。そんなことの繰り返しの中で、アミダ仏の働きというものを、私の実感として受け止めることができるようになるのでしょう。その時に、アミダ仏の存在というものが、私の中で「知っている」状態になるのでしょう。


168.png147.png勉強会での質問から

≪Q≫ 「救われる」ということと「はたらき」ということがリンクしてきません。救われるって、おいしいものを食べたときにうれしい、みたいな・・・?

≪A≫ 「救われる」という言葉を私はほとんど使いませんが、言葉は一つひとつ吟味して使う必要がありますね。アミダの願いの言葉の中に「十方衆生」という言葉があります。おいしいご飯を食べてうれしい、というのは自分の満足。それが煩悩。自己執着。そういう満足・幸せ・救いというのは、仏教のそれとは真反対のものです。「十方衆生」というのは、広くいのち全体がうれしく、満足し、幸せにということ。あなたがおいしいものを食べてうれしいな、ということを思ったとき、そこでアミダ仏の願いを思い出して「このうれしいなっていう気持ちは、アミダさまの願うみんなのうれしいこととは、違うんだな・・・」と思うとき、そこでひとつ学びが進むのではないでしょうか。



by shinransantoikiru | 2019-08-27 09:29 | 親鸞さんの仏教