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「教えを残したい『教行信証』。京都へ」

■■■第2章「親鸞さんってどんな人?

29「教えを残したい『教行信証』。京都へ」

              

最終ステージ、京都へ

 親鸞さんは60歳のころ、再び京都へもどられたようです。ちなみに鎌倉時代の平均寿命は24歳だそうで(この時代の墓地から出土した遺骨を調べると分かるそうです。幼年で亡くなる者が多かったとか。真偽は分かりませんが、いずれにしろ今よりははるかに短い人生だったようです)、50代はほんのわずかだったといいます。ということは、60歳での移住はかなり大きな決断だったのではないでしょうか。京都移住の理由はよくわかりません。ただ次のようなことが考えられます。すでに書き始めていた『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を完成させるためには、文献のある京都へ戻る必要があった。また京都では、法然さん亡き後、念仏の教えを伝える中心的な人物がおらず、教えがすでに乱れていたこと。そして、関東での20年におよぶ伝道の成果が見えてきていたこと。などがあります。

晩年の活動

 京都へ戻られた親鸞さんの活動は、書物を書いたり手紙を書いたりという、執筆が中心でした。

 親鸞さんは多くの書物をかかれましたが、その中でも一番力を注がれた主著と言えるものが『教行信証』です。これについては下の段でお話します。

 私たちにも身近で大切なお聖教(しょうぎょう。教えを説かれた大切な書物のことをそう呼んでいます)は、『和讃(わさん)』です。親鸞さんご自身が「和らぎ讃える」と言われているように、念仏の教えを分かりやすい言葉で伝えたいという思いで書かれたものです。主なものだけで350首におよびます。七五調で書かれた四行詩です。詩(うた)ですので、口で唱えやすく、耳で聞きやすいものです。文字を持たない人々も含めて、広く誰にでも教えを伝えるためのものであったようです。

 そして書物ではありませんが、とても大切なお聖教が、『消息(しょうそく)』つまり手紙です。親鸞さんのお手紙は、40通あまり残されています。現実の具体的な事柄についての通信であり、または質問に対する答え、関東の門徒さんからの金銭へのお礼など、書物にはない内容が多くあります。親鸞さんがどんな言葉で、何を伝えておられたのかを知る上で、とても貴重なものだといえます。

『教行信証』

 親鸞さんが一番時間をかけ、心血を注がれた書物が『教行信証』です。関東で執筆を始め、京都で何度も推敲しながら書き上げられたようです。『教行信証』は、正式には『顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)』という題名の本です。中は漢字ばっかり(漢文)です。つまり、この本は一般の人向けに書かれたものではなくて、当時の仏教学者(学僧)を対象にして書かれたものです。学術論文です。さて、その目的はなんだったのでしょうか?

 少しそれまでの流れをおさらいしておきますと、次のようになります。

 ①奈良仏教は国(権力者)のための仏教でした。そこから抜け出そうとしたはずの平安仏教も、山にこもったお坊さんが心の平安を求める仏教にとどまりました。つまり、本来の仏教とは違っていました。

 ②それに対して法然さんや親鸞さんたちの念仏の教えは、人間の悲しさ愚かさを教え、ともに支え合って生きることを教えるものでした。それは人間社会での地位や立場をこえた、対等な人間関係を生み出すものでした。

 ③その念仏が広まり始めると、旧仏教(当時の主流。比叡山や奈良の寺々)の怒りをかいました。また力による支配を行っている権力者(朝廷や幕府)からもにらまれ、激しい弾圧が起こりました。

 ④大切な教えを傷つけられ、仲間たちを死罪流罪にされた親鸞さんは、このことをその後問い続けられたようです。そしていつかはそれを明らかにした書物を書き、当時の仏教界に対して、念仏の教えがいかに真実の仏教であるのかを伝える必要があると考えられたようです。

 それが『教行信証』でした。仏教学者を対象にした本ですから、内容は大変むつかしく、お経やインド中国日本の先生達の本をかなりの部分で引用した長大な論文になりました。

 全体は6部構成になっています。

 「教」―真実の教えは「仏説無量寿経」にあると。

 「行」―念仏の行は、アミダ仏からの働きであると。

 「信」―念仏の信は、アミダ仏からの働きにうなずくことだと。

 「証」―アミダ仏の働きによって、私が仏になる身にさせられると。

 「真仏土」―アミダという仏と、アミダ仏の浄土という世界が真実だと。

 「化身土」―それ以外の間違った考えに、人間は陥りやすいのだと。

 化身土の巻の終わりで、親鸞さんは承元の法難に触れ、天皇上皇を名指しで批判しておられます。化身土巻は本末の二部に分かれていますが、その末では、人間社会に蔓延し人間が常々陥りやすい迷いの宗教を列挙しています。仏に帰依する者は、そのような迷いの宗教から決別するのだということを、かなりの紙数を使いながら論述しています。そしてその最後に、この人間社会の迷いの現実として現れ、真実の教えを踏み潰そうとしたのが承元の法難であると述べるのです。

 教の巻で、真実の教えとは何なのかを押さえ、それは人間にどういう道を開くのかを説き続け、そして最後にそれを妨げている「外教邪偽(げきょうじゃぎ)」、つまり間違った迷いの宗教について語り、最後の最後にその迷いの最大たる国家権力が、たいせつな真実の教えを踏み潰したことを、強い憤りを込めて批判しているわけです。

 書物の終わりの言葉で親鸞さんは、「アミダ仏のご恩の重さを思うとき、この書物がどんなに世間から笑われようが、恥ずかしいとは思わない」と記しておられます。親鸞さんのこの書物にかけた強い思いと、どんな障壁があろうと専修念仏に生き抜くという決意が、私たちに伝わってきます。



by shinransantoikiru | 2019-08-03 10:31 | 親鸞さんの仏教